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くじ引き将軍・足利義教■■織田信長が私淑 [転載禁止]©2ch.net

1 :日曜8時の名無しさん:2015/02/26(木) 13:51:09.90 ID:3Uym9I5B
くじ引き将軍・足利義教
足利義教は、庶民が訴訟で嘆く事がないようにしたいと言っている。
義教は「御沙汰を正直に諸人愁訴を含まざる様に御沙汰ありたき事なり」と自ら語り、訴訟に強い関心を持っていた。

しゅうそ【愁訴】とは。意味や解説、類語。
[名](スル)1 つらい事情を明かして嘆き訴えること。また、その訴え。

織田信長が私淑したことで知られている、足利幕府の六代将軍

「悪御所」の綽名で呼ばれた義教は苛烈な側面を有しており、些細なことで激怒し厳しい処断を行ったと言われる。主な例としては以下のようなことがある。

永享2年、東坊城益長が儀式の最中ににこっと笑顔を作った。義教は「将軍を笑った」と激怒し、益長は所領を没収された上、蟄居させられている。
永享4年、一条兼良邸で闘鶏が行われ、多数の人々が見物に訪れた。そのため義教の行列が通ることが出来ず、激怒。義教は闘鶏を禁止し、京都中のニワトリを洛外へ追放した。
酌の仕方が下手だという理由で侍女(少納言局)は激しく殴られ、髪を切って尼にさせられた。

2 :日曜8時の名無しさん:2015/02/26(木) 23:09:12.04 ID:ee5NIldl
勘合貿易による景気回復。
奉公衆奉行衆導入による軍備増強。
比叡山焼き討ちを初めとする寺社統制。 関東公方率いる鎌倉府や結城氏を殲滅する軍才。
参勤制度による有力大名の領地削減。
これらをたった15年で成し遂げちまうんだから
万人恐怖の第六天魔王に相応しい名君
あるいは暴君か。

3 :日曜8時の名無しさん:2015/03/07(土) 21:06:12.86 ID:PblXJ6f7
鍋かぶり日親のエピや祝辞に訪れた公家を罰したりしたのは事実なのかな?
有能な人だったんだろうが、ヒステリックところが目につきやすいという印象。

4 :日曜8時の名無しさん:2015/03/27(金) 07:29:32.24 ID:V2P/KBR1
確かに自分の子供が産まれたお祝いを無許可でしたから処罰ってのは間違ってはいないがやりすぎとも言うな。

5 :日曜8時の名無しさん:2015/03/29(日) 16:56:27.94 ID:d96MIF7l
みんな満済って知ってるのかな?
天授4年/永和4年7月20日(1378年8月21日) - 永享7年6月13日(1435年7月8日)
俺は、最近知ったんだけど
満済って、だいぶ足利将軍家に関わっているね。
歴史の教科書には出てこないけど

父は従一位 権大納言・今小路師冬(いまのこうじ もろふゆ)、母は聖護院房官法印源意の娘・白川殿。
生家の今小路家は関白二条兼基の子良冬(よしふゆ)を始祖とし、満済は良冬の三世孫にあたる。

母が室町幕府3代将軍・足利義満の御台所・日野業子に仕えていた縁で義満の猶子となり、報恩院隆源のもとで得度した。
その際、義満から偏諱の授与を受けて満済と号す。
長じて三宝院25世門跡となり、応永2年(1395年)から永享6年(1434年)までは醍醐寺第74代座主も務め、
これ以後三宝院門跡が醍醐寺座主を兼ねるのが例となった。
その間東寺長者・四天王寺 別当などをも兼ね、応永16年(1409年)には大僧正の位に上る。
正長元年(1428年)には三宝院門跡として初めて准三后の宣旨を授かった。

義満とその子である4代将軍義持・6代将軍義教の信任が厚く、内政・外交などの幕政に深く関与し、
黒衣の宰相の異名を取った。
特に籤引き将軍・義教を登場させたのは満済の功によるところが大きく、
さしもの恐怖政治を行った義教も満済の建言には従うことが多かったという。
幕政の中枢にありながら情勢を冷静に判断し、人情に厚い満済の態度は、同時代人から「天下の義者」
(伏見宮貞成親王『看聞日記』)と賞賛された。

満済が具注暦の裏にその日の出来事を記録しておいたものが『満済准后日記』(『法身院准后記』)で、
応永18年(1411年)から入滅の年までの記事があり、自筆本も伝存する
(現在は醍醐寺と国立国会図書館[1] 蔵。
共に、重要文化財)。室町殿護持僧として祈祷だけでなく、当時の政治情勢が克明に記録してあり、
室町中期の極めて重要な史料となっている。
その筆跡は傑僧とはほど遠い俗書である

6 :日曜8時の名無しさん:2015/03/29(日) 17:09:29.26 ID:d96MIF7l
西行法師って、4歳の自分の娘を足蹴りにしたりとか、問題行為も多いが


現代社会でも、男が、人が多数がいる場所で、口頭で侮辱されて辱めを受ければ
永久に、遺恨になるんだから・・・・・

平安や鎌倉や室町時代だったら、もっと、屈辱的だろうな・・・・

7 :日曜8時の名無しさん:2015/03/29(日) 17:22:58.93 ID:d96MIF7l
6代将軍の足利義教を殺した赤松満祐は、実は、4代将軍に殺される予定だった。
のだが・・・奇跡が起きて助かっていた。(すごい事実だなと思うよ)

播磨の守護大名の赤松満祐は応永34年(1427年)に亡くなった父の跡を継いだが、
前将軍・義持(当時の将軍は第5代義量)が満祐の所領である播磨を没収して寵愛する側近の赤松持貞(満祐の又従兄弟)に与えようとすると、
満祐は京都の自邸を焼き払って領国の播磨へ下り、
一族を集めて合戦の準備を始めた。
これに激怒した義持は残る備前・美作両国も奪った上で追討令を出すが、
討伐を命じられた一色義貫らが出兵を拒むなど混乱が続く。
翌年に突如持貞と義持の側室との密通に関する告発があり、持貞は切腹に追い込まれた。
満祐は諸大名の取りなしを受けて赦免された。

足利義教が第6代将軍となると、反乱を起こした北畠満雅討伐軍に加わり、満雅の子・教具と幕府を和睦させて北畠家の取次を務めた。
義教とは当初良好な関係であり、宿老の1人として義教の諮問に応じたり、
義教の邸宅訪問を受けたり、
永享10年(1438年)11月に3度目の侍所頭人を任されるなど幕府内の長老格として権勢を振るうが、
やがて義教は有力大名を誅殺しだすと、永享10年3月には家臣3名が義教によって殺害され[3]、
永享12年(1440年)3月17日に弟の義雅の領土が没収されて一部が遠縁の赤松貞村(持貞の甥)に与えられた[4]。
満祐も領地を没収されて貞村に与えられると言う風聞が起こるなど[5]、
次第に対立の色を深めていった。

将軍暗殺
義教は満祐に限らず有力守護大名家に介入し、管領の斯波氏や畠山氏の他に京極氏、土岐氏、一色氏ら四職にも介入した。
特に土岐・一色両家に対しては当主を暗殺して挿げ替える強攻策に出ていたため、
満祐は不安を次第に強めたという[6]。
永享12年(1440年)9月22日には侍所別当の職を罷免させられたため、幕府への出仕もしなくなった。
このため、義教と満祐の対立が先鋭化し、不穏な噂も絶えなかったという[7]。

嘉吉元年(1441年)6月24日、結城合戦の祝勝会として義教を自邸に招き、嫡子の教康と弟の則繁に命じて義教を暗殺した(嘉吉の乱)。

8 :日曜8時の名無しさん:2015/03/29(日) 18:02:28.14 ID:nJoURq80
7
そんな赤松のとつぁんが命の恩人義教を討つとか義教は愚か赤松本人が驚いたろうな。

9 :日曜8時の名無しさん:2015/03/30(月) 12:44:54.76 ID:JjAQOckJ
辞世の句は「頼む木の 陰に嵐の 吹きくれば 春の緑も 散果てにけり」
将軍殺しの赤松満祐の子の赤松教康の時世の句は、日本で一番悲しい句だと思う。

赤松 教康(あかまつ のりやす)は、室町時代中期の武将。嘉吉の乱で有名な赤松満祐の子。
元服時に第6代将軍・足利義教の偏諱を受けて教康と名乗った[1]が、
のち嘉吉元年(1441年)6月24日、父の満祐や叔父の赤松則繁と共に将軍・義教の暗殺に中心的な役割を果たした
(嘉吉の乱)。そして父や叔父と共に播磨に帰国する。

その後、赤松氏は山名宗全や細川持常らを大将とした幕府軍の追討を受けた。
8月24日に赤松軍を率いて和坂に陣を構えて、人丸塚にいた持常や赤松貞村、武田信賢らの幕府軍を破った[2]。
8月25日にも細川軍を破り、武将の吉川経信の侍大将らの多くを戦死させた[3]。
しかし8月26日、但馬方面から山名軍が播磨に侵入したため、坂本に撤退[4]。
このとき前日の雨で増水していた加古川を無理に船や筏で渡ったため、将兵の大半が溺死して一時は教康もこのとき溺死したと噂された[5]。
しかし坂本も落ち、赤松家居城の城山城に籠もる。

しかし城山城は山名軍を主力とした総攻撃を受け、9月10日に父の満祐は自殺した。
教康は満祐の命を受けて赤松氏存続のために17人の供回りと城の西南から脱出し[6]、室津から船で妻の従兄にあたる伊勢多気城の北畠教具[7]のもとへ逃亡した。
この際、教康は叔父の則繁や満祐が擁立した足利義尊らと共に逃走したとされる(『建内記』嘉吉元年九月二十五日条)。
教具は3日ほど城内に滞在させたが、やがて厄介者として馬場城に身柄を移した[8]。
そして教具は幕府からの討伐を受けることを恐れて教康を匿うことを拒絶。
これにより絶望した教康は9月28日に伊勢で自殺して果てた[9]。享年19。
その首級は10月1日に京都に送られ、幕府によって赤松屋敷に晒された。
ただし、薩摩の島津家の史料『本藩人物誌』によると、教康は父の死後に日向志布志(現鹿児島県)へ忍び下り、志布志の松山は中島に蟄居、
その曾孫である赤松肥前守義季(よしすえ)が島津義久に仕えたと記されている。

辞世の句は「頼む木の 陰に嵐の 吹きくれば 春の緑も 散果てにけり」 👀

10 :日曜8時の名無しさん:2015/03/30(月) 12:51:25.05 ID:JjAQOckJ
>>8
赤松満祐は、風貌も性格も、リアル 漫画天才バカボンのバカボンのパパなんだよ。

身長120センチ台で、性格も、傲慢で・・・・(家族は大事にするけど、常に世の中に不満を持っている)
満祐は、過去の風習にこだわらず、欲しいものには異常にこだわったりしている。

人物・逸話

満祐はその背丈の低さから父と共に三尺入道などと呼ばれていたことから低身長症(軟骨無形成症・身長が120cm程)だった
可能性もある。
またそのコンプレックスゆえに、足利義持・足利義教と2代に渡って将軍に反抗したのではないかとの説もある[13]。
江戸時代に身分制度が固まった封建制の下で、満祐は「逆臣伝」(『野史』)で扱われている[14]。ただし満祐こそが「真の下克上時代」を切り開いた人物という評価もある[15]。
満祐は性格が傲岸不遜、横柄で気性が激しかったという。これには多くの逸話もある。
満祐は弟の中でも乱暴者で知られた則繁と特に仲が良く、満祐は常に則繁を伴って行動していた。則繁が細川邸で暴挙に及び将軍の義持から切腹命令が出ても弟をかばったとされており、
このため義持・義教の2代にわたって満祐は信頼されず、むしろ温和で有能な庶流家を厚遇したという[16]。
東寺の傍を通ったとき、壁越しに見た一本の松が特に枝振りが美しかったので使いを送ってこの松を所望した。勿論、満祐はそのための代金も出しているが、
社寺で成長した松の木を私邸に移すなど当時の常識では考えられぬことで、
東寺では衆議を開いて協議したが赤松家が幕府の重職にあることを考慮してやむなく松を譲ったという

11 :日曜8時の名無しさん:2015/03/30(月) 13:07:07.09 ID:JjAQOckJ
怪力の赤松則繁は、赤松満祐の実弟
幕府は、この男を非常に恐れて、甥っ子に叔父サンを討伐したら領土を一部返すよと餌をまいたりもしている。 
最期は(甥の赤松則尚)に、裏切られた男

赤松 則繁(あかまつ のりしげ)は、室町時代中期の武将。赤松満祐の実弟。
赤松義則の子で満祐の実弟。満祐とは仲が良く、赤松一族で屈指の武勇を誇る猛将だった。
そのため性格が大変粗暴で、応永31年(1424年)3月14日には細川持之屋敷の花見の席で家臣の安藤某を殺害するという暴挙を行なった。
これに激怒した第4代将軍の足利義持は則繁に切腹を命じたが、則繁は逐電したためその命令は実行されなかった。
そして応永35年(1428年)1月に義持が死去するまでは姿を隠していた[2]。

嘉吉元年(1441年)6月24日に第6代将軍・足利義教が赤松屋敷を訪問した際、甥の教康と共にその接待(介添)を勤め、若い甥に代わって諸般の指図をした。
そして義教を暗殺する嘉吉の乱に主導的役割を果たすと[3]、自らの屋敷や一族の屋敷を焼き払って播磨に帰国した。
そして兄が足利直冬の孫・義尊を擁立すると50騎ほどを率いて迎えにいったという。
やがて山名宗全を主力とした討伐軍が播磨に迫ると、則繁は美作口を守ったが8月26日に敗れた[4]。
9月10日に城山城が山名軍に攻められて兄が自害する直前、兄の命令で脱出して再起を図ることになり、
城の西南から脱出した[5]。

また『建内記』嘉吉元年九月二十五日条によれば、満祐の嫡子の教康や義尊らと共に脱出したとされている。
脱出した則繁は室津から船で筑前守護の少弐教頼を頼って落ち延び、さらにその助けを得て李氏朝鮮に渡った。
朝鮮では一州において暴れまわって制圧する勢いだったという[6]。
文安5年(1448年)1月、日本に帰国した則繁は少弐教頼と共に肥前で大内教弘軍と戦ったが敗れた。
このため播磨に逃れるも、播磨はすでに山名宗全の領国だったためどうしようもなく、
河内の畠山氏を頼った。
しかし8月8日、幕府に潜伏先を知られてしまい、赤松家の再興と播磨の守護職返還の確約を得た甥の赤松則尚と細川持常の軍によって
潜伏先の当麻寺を包囲されたため、自害した[7]。享年49。
首級は京都に送られて晒されたという。

12 :日曜8時の名無しさん:2015/03/30(月) 13:25:02.85 ID:JjAQOckJ
● (自分で刀工趣味の大名 赤松政則)
嘉吉の変で没落した赤松一族を再復興した男
大名にしては珍しく刀工としても一流で、名工・長船宗光に師事したと言われ、
後世に幾つかの名刀を残している。
そのほとんどが家臣に与えられたものである[33]。
政則は幕府の要職である侍所所司を勤めていたため、武家の故実に通じる必要性があった[34]。
政則は刀工として非常に秀でていたが、その刀剣の大半を家臣に与えている事から恩賞を意図した家臣・領国統制の一環として利用した説も唱えられている


享徳4年(1455年)2月19日、赤松家の第8代当主・赤松満祐の弟・義雅の子・時勝(性存・性尊)の子として生まれる。
赤松家は嘉吉元年(1441年)に赤松満祐が室町幕府第6代将軍・足利義教を暗殺するという嘉吉の乱で幕府軍に攻められて滅亡していた。
そのため、父の時勝と政則は京都建仁寺で養育されていた。
政則が生まれる前の年(享徳3年、1454年)に同族の赤松則尚が播磨で挙兵したが、翌年に山名宗全に討たれている。

政則が生まれて7か月後の10月に父の時勝は死去した。母も早世したとされ、政則は幼少期から不幸な生活を送ったとされる。
政則の養育には家臣の浦上則宗が務めて主従苦楽を共にし[註 2]、
これが後に大名家に再興した際の政則・則宗体制の原点となった[2]。

●長禄の変と赤松家の再興
嘉吉の乱以後、旧赤松領は山名氏の領国となり赤松家の旧臣は排除され、または浪人となり討伐の対象とされる事もあった。
このため、赤松家旧臣の多くは主家再興を悲願としていた[3]。
赤松家の旧臣・上月満吉は康正2年(1456年)に吉野に入り、神璽に関する情報収集に務めた。
これは後南朝に奪われた神璽奪還のためであり、これは「御屋形様(政則)」と「勅諚」「上意」との約束だったという[註 3]。
調査には1年の月日がかかり、長禄元年(1457年)12月に赤松家旧臣らは奥吉野に侵入し、南朝後胤とされる一の宮、二の宮を殺害した。
二の宮を殺害したのが満吉である[4]。この時に神璽も奪還した(一時的に吉野の郷民に奪われたが、再度奪回している)。
この結果、長禄2年(1458年)8月に神璽は京都に戻り、その功績により赤松家の再興が幕府から認められる事になった(長禄の変)[4]。
幕府が赤松家の再興を認めた背景には、長禄の変における功績の他に山名氏に対する政治背景があったとされる。
嘉吉の乱で旧赤松領を分国とした山名氏の勢力は幕府を脅かすほど強大化していたため、赤松家を再興する事で山名氏の牽制に当てる狙いがあったとされている[4]。
また赤松家再興と所領の付与には細川勝元が積極的に関与している事も確認されており[註 4]、赤松家を取り立てる事で山名宗全に対抗する政治的意図があったとされている[5]。
赤松政則には幕府から勲功として加賀北半国の守護職、備前新田荘、伊勢高宮保が与えられた[5]。
代わりに北半国の守護だった富樫成春は追放されている。

13 :日曜8時の名無しさん:2015/04/06(月) 11:54:06.29 ID:db4o1REi
嘉吉の乱、ひと良よい夢(1441)、赤松氏。



・・・・・・・・と覚えたのを思い出したお。

14 :日曜8時の名無しさん:2015/04/13(月) 01:08:04.22 ID:LtaG92SQ
タイトルは「万人恐怖」とか?

15 :日曜8時の名無しさん:2015/04/20(月) 08:25:02.97 ID:bylVIe58
魔王義教を討てた赤松も魔物

16 :日曜8時の名無しさん:2015/04/21(火) 06:00:04.02 ID:KQVjqLbK
足利よしりん

17 :日曜8時の名無しさん:2015/04/23(木) 00:28:06.57 ID:O6iz0LcK
もしもここで義教サンが横死しなければ、足利幕府は後の江戸時代並の安定社会つくったかもしれないな。

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